油彩を中心にして絵の基礎を学ぶ。
大人の絵と子供の絵
想像力に羽が生えているのが子供の絵で、地に足を着ける想像力が大人の絵だと思っています。
エピソード1 (もはや出典が明らかではない、ラジオか本か新聞か)ニューヨークに旅した時、地元の一家族と親しくなった青年が、「西部の実家に車で行くけど、一緒に行かない?」と誘われた。いい機会だと同乗させてもらうことにした。一家にはトムという少年がいた。
ニューヨークも郊外にさしかかると原野が広がる。お母さんは窓の外を指差してトムに話かける「あれは何?」と。犬のようだがひょっとしてオオカミか、尻尾が太いから狐かなと思ったていると、トムは嬉しそうに「カウ!」と答えた。ははは、子供だなと思っていると混乱がおこる。「ブラボー、トム!」。??!。お母さんは続けて空を指す「あれは何?」。大きな鳥だからトンビか鷲かな、いやここはアメリカだからコンドルなんかも飛んでいるのかな、、、。トムは元気良く「カウ!」。そしてその反応がまたもや「ブラボー、トム!」。これはマズイ、教えなければ、親として大人としてという思いが車内の喝采にかき消されていった。そして車から降りる頃にはほとほと気付かされた。トムはこれからも言葉を覚え、喜々として話すだろうと。
エピソード2 (これは私の体験)卒業間近、東京杉並区で子供達を教えていた事があります。
「この子を教えてやってくれませんか」。ある母親が女の子を連れてやって来た。何のことはないうちのクラスの大輔のお母さん、女の子は姉の千尋。顔見知りであり、千尋はしょっちゅう教室に出入りしていたからキョトンとした。同時に困った。小学2年までのクラスがあるだけで、上のクラスが無かったからだ。お母さんは続けて「この子成績は良いんですが絵が苦手で、通信簿2なんです。コンプレックス持っちゃって、、、教えてやってくれませんか」。それが改まって連れ立って来た理由だった。そこで1日だけ特別に見る事にしたのです。
一階は卸しでもやっているのでしょうか、魔法瓶の箱で一杯の一軒家の二階、ぶち抜きで20畳ほどのスペースが松の木絵画教室でした。そこで彼女は画用紙を前にして固まってしまった。とにかく実態を知りたくて渡した物だが、可哀想になるくらいかたまっている。何でもいいからと再三の催促にやっと小さく少女を描いた。寂しいね、の感想にもう一人。何処にいるの?に、草、家、煙突、鳥、蝶と増えてゆく。これは2だと思った。
それではデッサンをやらせてみようと、セットした。ワインの瓶、レモン、ハンカチを真上から見て三角形になるようにおいて、身長分離れて「そっくりに描いてごらん」と鉛筆を渡して離れたのです。今度は彼女の様子が違い、すぐに手を付けたのですが、もっと驚いたのは30分後、彼女の肩越しにデッサンを見た時です。
高校生クラスなのです。1、2年も教えれば美大生クラスの実力です。2、3アドバイスすること、「本当だ!」と、視覚の誤解を理屈で理解する。これで美術2!、、、間違っています。彼女は大人になっていたのです。頭がリアルになって、空想から現実の世界に興味が移っていたのです。つまり想像力の羽が落ち、地に足を着ける段階に入っていたのです。大人の都合でコンプレックスを与えていました。彼女は2では無く5です。特記する欄に大変優秀であると付け加えなければならないほどです。
君は優秀!見てごらんこれ。こんなに描けるものではない!お母さんに頼んで額縁に入れてもらいなさい。でも、残念ながらこれからも君の美術の成績は悪いだろう。それは大人が君が大人になっている事に気付かないからだよ。でも、しょげないで、君は上手い!本当は。と言ってかえしました。
子供さんの絵を「あんたは絵ごころ無いねー」と言っていませんか?羽が生えている時期は全力で褒めるのです。子供は喜々として想像力を働かせます。そしてその時期が終わる時、地に足を着ける理屈の世界へ入って行きます。その事で論理的に物事を考えていくのでは無いでしょうか。大人の教養として、たかが絵、では無いのです。